本文へスキップ

空海や道元など有名な僧侶の生涯などについて解説します。

日蓮

法華経の行者

日蓮 写真

法華経を唯一真正の経典として認めない社会の壁にぶつかったのも受難ですが、 落命寸前の受難にも日蓮は何度かあっています。 ですがそのたびに命を拾い61歳まで生きたことが、日本第一の法華経の行者 としての証でしょう。 日蓮が日本第一の法華経の行者と自覚したのは1264年11月、 下総の小松原で領主の東条景信に襲撃されたあとのことです。
前年に3年間の流罪から釈放された日蓮は故郷を訪ねますが、 その帰途を襲われて弟子の鏡忍房は戦死し、乗観房と長英房は負傷してしまい、
駆けつけてくれた工藤吉隆と二人の下僕も死んでしまいます。
しかし日蓮は頭と左手に傷を受けただけで命は助かったのです。
この事件の報告を南条兵衛七郎にあててしているのですが、その書簡に 「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」
という言葉が出てきます。 日蓮自身も、どういうわけか殺されずに今日まで生きていると不思議に 思ったことを告白しており、法華経こその信心がいよいよ高まってきた、 と解釈したことが書かれています。 また1271年にも、日蓮は鎌倉郊外の刑場で頸を切られることになります。 ですが処刑寸前に突発事件が起こって処刑は中止され、
かわりに佐渡へ 流罪され一命を取り留めることになったのです。



日朗

日朗(1243〜1320)は日蓮宗の僧侶で、下総国猿島郡印東有国の子です。 早くから日蓮の側近に侍し滝ノ口の法難の時には右肘を折られ、 佐渡に流された日蓮を八度も訪れて慰めました。 妙本寺と本門寺をあわせて司ったこともあり、下総平賀に本土寺を創建しました。 日像・日輪・日善・日伝・日範・日印・日澄・日行・朗慶の九弟子は朗門九鳳と 呼ばれます。 師の日蓮が北海の佐渡に流されていている頃、日朗と4人の日蓮の弟子達は 鎌倉の土牢に押し込められていました。 互いに励ましあって耐える様子が5人を土牢に預かる責任者、宿屋入道最信に 伝えられると、「彼らの師の日蓮の申すことは、正しいのではあるまいか。 そうでなければ5人の者がこれほど晴々とした日々をおくれるはずがない」 と思うようになります。 1272年2月幕府執権北条時宗の兄の時輔が、謀反のことありとして誅殺 される事件、2月騒動の発端が起こると、日蓮の予告どおりに2月騒動が 起こったことを不気味に思った幕府は日朗など5人の入牢を解きます。 日朗はすぐに佐渡に向かうと日蓮に面会し、鎌倉の情勢について報告して こまごまと指導を受けました。 日蓮の釈放が決定されたのは1274年2月のことになりますが、 その時も赦免状を届ける幕吏とともに日朗は佐渡へと行きました。



日像

日像(1269〜1342)も日蓮宗の僧侶で、日朗門下九鳳の一人です。 下総国葛飾郡平賀の出身で、日朗の門に入ると日蓮から伝法の許可を得て上京し 京都布教の先鞭をつけます。 日像は京都に初めて日蓮宗を伝えた僧侶ですが、古い仏教に凝り固まっている 京都に法華経こそ唯一真正な経典なり、という新しい考え持ち込むことは 容易な業ではありません。 日像は10月の末から鎌倉に近い由比ケ浜で海水に身をひたしたまま自我偈を 百遍ずつ唱えて心身を鍛えました。 百日の満願の日、日像が海に向かって大きく「南無妙法蓮華経」と字を書くと、 文字が海面に浮かび上がり波につれてうねうねと漂ったそうです。 それ以来日像はこの文字を「波ゆりの題目」と呼ぶようになり、曼荼羅はすべて 「波ゆりの題目」の字で書くようになります。 そして日像は男山の岩清水八幡宮に着くと社前で一夜を明かします。 この男山は京都の南の出入りを扼する重要な地点となるので、日像はここで 岩清水八幡に無事入京を祈ったのです。 日像が祈念の一夜を過ごしている時、八幡社の神官の夢の中に八幡大神が現れ、 「大事なお客がお着きになられた。早くお迎えせよ」とのお告げを受けます。 そこで神官が社前に行くと日像が座っており、この僧が八幡大神の夢告で 知らされた客に相違ないと思った神官は、日像を案内して京都に送ったのです。



バナースペース