本文へスキップ

空海や道元など有名な僧侶の生涯などについて解説します。

空海

終生のライバル

空海 写真

空海は伝教大師最澄と並ぶ平安仏教の創始者で、三筆の一人に数えられる 名筆家でした。 空海と最澄はさまざまな意味で終生のライバルで性格も水と油のように異なり、 最澄が秀才だとすれば空海は天才でした。
二人の間には親交の時期もありましたが、必然ともいえる決別が訪れます。 このふたりはお互い相手を意識しつつも、それぞれ自分の信じる確固たる 道を歩むことで日本仏教の重鎮となります。 空海と最澄の間にはかなりの数の往復書簡があったようで、 その中に空海の最澄あて書簡、世に知られる国宝「風信帖」があります。 これは空海の書の中でもっとも確実な真筆ということで、内容よりも書簡 としての価値が喧伝されています。
811年前後に書かれたとされる風信帖の名は、この書簡の書き出しが 「風信雲書」で始まるのでこう付けられ、三通からなっています。
もともと比叡山延暦寺にありましたが現在は東寺の所蔵になっています。
双方で書簡の交換をしたのだけど、最澄から空海宛ての書簡は信長の 比叡山焼き討ちで焼失したという説もあります。



風信帖

風信帖の書簡は全てが最澄に宛てた返書になっています。 その内容は、お招きに従って比叡山へお尋ねしたいが、
多忙をきわめているので どうか当方へお越しください、ともに仏法の根本に関わる事柄を相談しあって 新しい教えをひろめましょう、といった感じです。 書簡の存在は有名なのですが、風信帖の文面はあまり紹介されることもないので、 ここでその一部を紹介します。 「風信雲書、天より翔臨す。之を披き之を閲するに、雲霧を掲げたらむが如し、 兼ねて止観の妙門を恵まれる。頂戴供養しておく攸を知らず。巳だ冷なり。 伏して惟れば法体如何に。
空海、推常なり。命に随つて彼の嶺に躋攀せむとも 擬るも、限るに少願を以てし、東西することを能はず。
今、我が金蘭及び室山と与に一処に集会して仏法の大事因縁を商量し、 共に法撞を建てて仏の恩徳に報ぜむことを思ふ。望むらくは煩労を憚らず、 此の院に降赴せられむことを。此れ望むところ望むところ。そうそう不具。
釈空海状して上る」九月十一日 東嶺金蘭法前護空
この最澄に宛てた書簡はもともと5通あったそうですが、一通は何者かに 盗み去られ、もう一通は関白豊富秀次が東寺から持ち去ったといいます。



希代の名僧

最澄より遅れて入唐求法から帰った空海は、その請来した典籍類が最澄を はるかに凌いでいたそうです。
そのため最澄は空海からそれらの貴重な仏典をしばしば借覧しており、 弟子として密教法儀の灌頂まで受けています。 風信帖の書簡はふたりの交友をあかす貴重な証拠でもあるでしょう。 この親密な関係が破綻することになった原因、その1つが弟子泰範をめぐる 確執でした。 泰範はもと南都元興寺の僧侶だったのですが、縁あって最澄の弟子になります。 最澄は812年に空海から高雄山寺(神護寺)で金剛界灌頂を受けると、 翌年には泰範らの弟子にも受けさせました。 しかし泰範はその後もそのまま空海のもとに留まって、最澄の度々の帰山命令 にも従わなかったのです。 そして空海が代筆した「玉石の区別がつかぬほど愚か者でない」という 絶縁状を最澄に送りつけました。 もう1つの理由は、最澄の度重なる仏典借覧の申し出だったようです。 空海からしてみれば苦労して集め財物である仏典借覧ですので、 最澄の頼みは虫がよすぎると思って当たり前かもしれません。 弘仁四年に理趣釈経の借覧依頼を毅然と断ると、希代の名僧は袂を分かつ ことになってしまいました。



バナースペース